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藝術三昧


2010のアートイベント


2009のアートイベント


2011のアートイベント


森美術館
「幽体の知覚」小谷元彦展

http://www.mori.art.museum/contents/phantom_limb/index.html
なるほどと思う展覧会。横浜美術館の高嶺格展と比べてみるとなにか見えてくるものがあるように思う。
作品個々の完成度は圧倒的に小谷元彦の方が高い。個々の作品として見ても心地がいい。
しかし、作品の持つエネルギー・メッセージということでは高嶺に負けているような気がする。
これは作品の作り方を考える上でとても重要なことな課題なのかもしれない。
小谷元彦には作品には生き様なるものは込められているようには感じられない。「巧みさ」なるものを集大成したものが作品となるのであって、まさに「藝術」がなせる技である。一方の高嶺は巧みさというものはその生き様の前には何ら意味をなさないのかもしれない。いや、巧みさなるものが劣っているがゆえにそう見えるのか巧みさを超えたところで作品を作ろうとしているのか。
現代美術までの流れは私は語ることはできないが、メディアアートにおいては「完成度」というものは多くの場合「システムアーキテクチャー」「耐久性」「スムーズな動作とその完結度」に使われることが多く、その作品のメッセージ・作者の問題意識なるものへの注目は比較的薄れてしまうという残念な状態があった。
小谷元彦はメディア・アートといわれるジャンルの作家ではなく「現代美術」の作家として十分に作品が確立している上に、それだけのまとまった作品を残していることが何より魅力的である。
もっとも注目するべき作品は360度「滝」の映像を映し出した作品であろう。
しかし、残念なことに、CAVEなどで全面への映像が包み込まれた空間での作品鑑賞はすでに日本人にとって驚きはない。
古くは真言宗の護摩行なんかの太鼓と炎とお経のマルチメディアなんかと比べてその説得力にはどうなのであろうか?という疑念が沸いた。
8面だったかのマルチプロジェクションは8面異なるもので、足下・天井のミラーによる反転は現代人への畏敬を持たせるには不十分であり、かつ、あの迫力を補完するための「音」といえば、しかるべき環境を構築するべきであった。予算・制作期間の問題もあったのだろうけれど、もう一歩という感じがあった。
ともあれ、
この御年でこれだけのまとまりのある個展を開ける現代作家もそういるものではなかろう。

足利市美術館
「話の話」 ロシアアニメーションの巨匠 ノルシュテイン&ヤールプソワ
http://www.watv.ne.jp/~ashi-bi/norshten/norshtein-sakuhin.htm
行けなかった・・・。残念。


横浜美術館
高嶺格―とおくてよくみえない―
2010年大晦日にドガ展を見に行ってその混雑ぶりにびっくりした横浜美術館の新年1回目の展覧会。
http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2010/toofartosee/artist.html

横浜美術館でこういう展覧会が行われるのは珍しいのではないかと思う。いや、横浜美術館でなくとも、関東の美術館では滅多にないと思う。そういうい意味でも行く価値はある。

メディア・アートというジャンルでは社会へのメッセージが弱い・イデオロギーがない、作品のメッセージが現代美術以前のものと比べて弱いなどという批判を受けることが多い。特に、日本の作品の場合その傾向は顕著になると思う。それはいい面と悪い面があるとは思うが、そのことと作品の善し悪しはやはり「別」に議論をするべきそんな時代に来ているのではないかというのは私の考えだ。

第4展示室のゾーンには「刺繍」の作品が並ぶ。2011年作ということなので最新作が並んでいるわけだ。期待していた作品と全く違う作品にしょっぱなからガツンとやられた気分である。こんな気分になったのはプラドー美術館でゴヤの最後の作品を見たときと一緒というとほめすぎではあるが。

会場はそこそこな混雑なんで(絵画展にくらべればガラガラといっていいでしょう)、いわゆるキネティックアート作品ひとつ、ビデオアート作品が4つとあるが、覚悟を決めてゆっくり見ていけばいいんだと思う。
こんなしつらえなら、本当は始まりからちゃんと見せてほしいものだが、そういう工夫は横浜美術館では難しいでしょう。

おまけとしては、
奈良義智の作品が20点ばかり収蔵展示で並んでいる。
そのまま帰るのではなく、ぜひ、そちらも。
(イサムノグチもあるし、荒川周作もあるし、実はここのコレクションもあなどれないのだ)

3月20日まで。
混んでいるとはっきりいって「ちいさくてよくわからない」状態になるのdで、早めの鑑賞をお勧めする。

自分の生き様を作品として作っていくこういう作家は嫌いではない。むしろ尊敬もするし、支持したいという思いはある。ただ、私にはこの作家の作品はなにかとおざかりたくなる、離れたくなるそいういう何かがあるようだ。作家の思いを吐露されたとしても、鑑賞者はやはりそれを受け止めるためのバックグラウンドも必要だし、その作家の思いを受け止めるだけの「寛容」も必要だろう。しかし、その受け入れるという覚悟は残念ながら私にはもてなかった。会場に響き渡る不安な「うめき声」に、アートは本来人を幸せにするためのものであろうという私の思いに反するものを感じてしまう。
藝術は人に夢と希望と幸せをもたらしてくれるきかっけであってほしい。

NTTインターコミュニケーション・センター
「みえないちから」展と常設展示


「みえないちから」展
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Vibrations_of_Entities/index_j.html
シアターではオスカー・フィッシンガーの映像作品上映があった。シアターは満員でその関心の高さもとても興味深いものだった。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Vibrations_of_Entities/works/other01_j.html
実はその作品自体は案外見る機会がないのは事実で、こういう機会を作ってくれると現代の作品がなぜ生まれたかということを知る手がかりとなるのでとても貴重な機会だと思う。
そして、今回、この展覧会はどうしても見ておきたかったのは「フォルマント兄弟」というなんとも本気なのか嘘なのかわからないユニットの存在が気になったからである。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Vibrations_of_Entities/works/work04_j.html
メディアと人の関係について見事に語りと「箱」で展示をするという快挙といえるであろう。オチについても、二人を知るものは、安心するというか、そうあってほしい通りになっているんで。
ただ、来場したのに見ることができない作品がある。それはミュージアムとしも、せっかく来ていただいたのに、お見せできないなんて・・・なんとも残念なことである。かといって、キャパを超えた対応をすることは他のお客様にも迷惑はかかるし・・・。なんともやるせない気持ちになるだろうなぁ。と、来場者が主催者の心配をしても仕方ない。
テトラッドの適用例---テレビ
A:目のマルチ感覚的な使い方を強化し、
B:ラジオ、映画、「視点」を廃れさせ、
C:神秘的なものを復活させ、
D:それが行き過ぎると「精神世界」への関心をもたらし、あるいは「内と外」との逆転が生じる。
このまさに「神秘的なものを復活」「精神世界への関心をもたらし・・・」この話を三輪さん、左近田さんはこのお化け屋敷で語っていたのである。
今後のこの作品展開に非常に興味が高まった。
そして、これから、ICCが向かうべき方向についても実はこの作品が語ってくれていると私は感じた。

「オープン・スペース2010」
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Openspace2010/index_j.html
気になっていたのは2つの作品。
ひとつは「クワクボリョウタ」
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Openspace2010/Works/thetenthsentiment_j.html
この作品を見たかったから。
2010年メディア芸術祭優秀賞を受賞している。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2010/art/TheTenthSentiment/

この作品をより深く体験するには下記4つの作品を知るといいかもしれない。
ハンス・オプ・デ・ビーク「Staging Silence」
http://aichitriennale.jp/artists/contemporary-arts/-hans-op-de-beeck.html
クリスタ&ロラン「霧の特急列車」
http://www.iamas.ac.jp/interaction/i99/artist/Christa-Laurent-j.html
イームズ「パワーズ・オブ・テン」
http://amzn.to/fH5Mg5
近森基「KAGE」
http://plaza.bunka.go.jp/festival/1997/degital/000053/
私は美術評論家でもないので、ただ、作品をより楽しむために、その作品との近似・連関・引用・暗喩といった相関を求めて、作品の意味をまさぐるということになる。あの作品のやっぱり秀逸なのは、帰りは行きの倍の早さで巻き戻すあの作業にあると思う。そう、パワーズ・オブ・テンのあのリワインドあれが人間の記憶を高める&飽きさせない儀式なのである。ループしないでリワインド。そこにクワクボリョウタのデバイスアーティストから一歩歩み始めた何かを感じた。誤解のないように行っておくけど、上の作品と似ているとかそういうことを言いたいのではなくて、その素材・ツール・テーマをどのように自分のテーマに落とし込めるかにあるものだと思う。
そういう意味でクワクボリョウタのこの作品は秀逸だと関心した。
今年度見た作品では「Staging Silence」と並んで好きな作品である。

本当は最終日じゃなくて、初日とかに行って、一人でも多くのお客さんを動員することに協力するべきなんですが、すいません。最終日のにぎやかし要員となってしまった。

レンブラント 光の探求/闇の誘惑
国立西洋美術館

日本テレビの事業って知るとなんかがっかりするような気分になるのはなぜなのか。ともあれ、レンブラントである。
レンブラントがこんなにたくさんの版画をやっていたってのは知らなかった。
というか、レンブラント工房という形で作品制作をやっていたってのは聴いたことがあるので、実際版画という制作技法はレンブラントには向いていたのだと思う。今回の展覧会で驚いたことは、その版画のバージョンの重ね方と、紙の選択にあった。
試し刷りとしての位置づけの紙に「和紙」を好んで使って、大量生産の紙には「西洋紙」を使っていた。もちろん、和紙の方が「限定版」コレクターズアイテムだったということ。
しかし、連休中だとはいえ、この動員。
豪華展覧会カタログが2300円というのもすごい。今回の展覧会は「版画」と「紙」の関係に焦点があたっていたが、まさに「写真」登場以前の複製技法の特徴を知る良い機会だった。
さすがである。
もう少しゆっくり見たかった。

写楽展
東京国立博物館

6月12日まで東京国立博物館平成館にて
もちろん、見に行ったのはNHKスペシャルでびっくりしたから。
というのと、版画というものがどういうものか今ひとつわかっていなかったが、国立西洋美術館でやっている「レンブラント展」を見て、その版画の威力に少々あっとうされた。

版画という複製技術を知ることで、21世紀の「デジタル技術」による複製芸術のあり方なども知ることができるのではないかということで反省の念も込めて17世紀~19世紀のこういう文化を勉強しようということを感じ始めているところで出会った「写楽」

終わった時間になって知った残念なことが
大和文華館の方による写楽の時代の背景などの講演会があったようで・・・満員だったようでなによりである。

で、肝心の展覧会は2部構成になっている。
第1部が「写楽の背景」
第2部が「写楽の4期の作品展示」
となっている。
おもしろいもので第一部が混んでいて、第二部が(比較的)空いている。会場の案内の人が「第二部からごらんください」という無謀なことを言うのも納得。指示に従った。いや、第二部から見た方がいいのではないか?いや、写楽が何かを知らない人は第一部からなのか?

NHKスペシャルでやっていた「写楽は誰なのか」は展覧会のテーマではないようで、この辺の事情は展覧会カタログの国立博物館 絵画・彫刻室長 田沢裕賀の論文にしっかり書かれている。国立・・・のカタログはとても贅沢な作りで、資料的価値もとっても高い。

現代美術以降というか、複製芸術なるものが登場してからの世界に生きる私にとって、その版画なるものがどのような経緯で登場し、どのように民衆に受け入れられ、どのようにプロダクションシステムが形成されたのかということはとても興味深いものがある。

田沼時代から寛政の改革を経て、化政文化なるものがどのように花開いたのか、その始まりに登場した謎の「写楽」。
フランキー堺が没頭するのも納得である。

モホイ=ナジ/イン・モーション
神奈川県立近代美術館葉山館

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/nagy/index.html

神奈川県立近代美術館「葉山館」
鎌倉館までは知っていたんだけど、葉山にできたってのはお恥ずかしながら知らなかった。逗子からバスで20分ほど。土日には1時間に5本もあるんで、別に車でなくてもよさそうだ。もちろん、湘南ドライブには最高の場所である(渋滞がないのならば)。
ホームページを見る限り「レストラン」と「風光明媚」は売りなようなんでそれを一緒に楽しむのがよかろう・・・(レストランは景色代を考えればそんなもんでしょう。ただし、テーブルは7つなので待ち時間は覚悟が必要みたい)。

肝心の展覧会のタイトルとか綴りに気になることがある。
モホイ=ナジ
モホリ=ナギ
モホリ=ナジ
いろいろな呼び方があるのはあまりこだわってもしかたない。

ともあれ、彼の作品・・・。
私が知っているモホイ=ナジってのは
「バウハウス叢書」の編纂をしたこと
「ニューバウハウス」をアメリカで始めたこと
てな感じで、個々の作品は、そりゃ、見れば「モホイ=ナジっぽい」とか言うことはできるけど、どれがとか、何がとかはあまり語るほどの知識がない。実験的な写真が(photogramとか言ったと思う)があるのも記憶にあるけど、それが代表作ってわけでもなかろう。
実際、モホイ=ナジの代表的作品は、写真なのか、あの絵なのか、何が彼の本来の姿なのかということは今ひとつ理解していなかった(そもそも、そんなことを考えるのが意味ない人であるのだけれど)。
バウハウスを語る上で、モホイ=ナジの存在はあまりに大きくもあるけれど、このような一堂に介した展覧会ってのは日本初なわけで、この力の入ったカタログ(3200円)も含めて、現代美術を知るためには「必須」の展覧会であることは確かである。

2011年7月20日から9月10日
京都国立近代美術館
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2011/387.html
2011年9月17日から12月11日
川村記念美術館
http://kawamura-museum.dic.co.jp/museum/index.html

パウル・クレー展
おわらないアトリエ
国立近代美術館

2011年7月31日まで
http://klee.exhn.jp/

話題の展覧会ということで展覧会はタイトルに反して終わってしまうので、あわてて見に行った。なんで、パウル・クレーがこれほどまでに人気があるんだろうと実は私は不思議でならないんだけど、人気があるのだから仕方ない(好きとか嫌いとかいうことではなく、もっと注目されるべき作家が案外冷たい扱いだったり、人気がなかったりということがああるのに対して、この注目度はなかなかすごいといういい意味での意外感である)。

ということで、仕方ないという意味の一つに、展覧会の会場の混乱がある。多くの人が展覧会会場に足をはこんでくれることは嬉しい限りだ(どこからの目線かということはおいておいて)。ただ、一鑑賞者としては展覧会会場は空いているほど嬉しいワケである。ゆっくり、自由に鑑賞できるというのはこれほどの贅沢な話はない。
お盆・年末年始の道路の渋滞がなんで起きるかというのは、車の数が多いから以上に、運転になれていない人が流れに入ってくることで、無駄なブレーキで本来とまるところのない流れがとまってしまうわけで、そんなことで、複雑な展覧会会場はちょっとした混乱をきたしていた。
整然とした作品とは対照的な複雑な順路に文句を言う人がいたり、3人組・家族連れ・アベック・夫婦のぺちゃくちゃがこれほど活発な展覧会会場も珍しい感じだったが、そんな人を避けて観てまわればいいだけだけど。

肝心の作品については、
ここ数年、展覧会の質が急激にアップしているように思う。
クレーを理解するための様々な工夫が展示順序・グルーピング、解説にあらわれている。学芸員のがんばりに心から経緯を表したい。
「現代美術、解説をきけばどれもおもしろいにきまっている」
という話があるけど、いい解説、解釈をするにはそれなりの時間と教養が必要で、鑑賞者にはそれ以上に知識が必要である。いい時代になったと思う。

実は同時開催の
「路上」
いい企画だ。
http://www.momat.go.jp/Honkan/On_the_Road/index.html

ヨコハマトリエンナーレ2011
OUR MAGIC HOUR
http://118.151.165.140/
2011年8月6日~11月6日

3年ぶり。だからトリエンナーレと言うのだけれど、びわ湖ビエンナーレは3年に1回だったり、ヨコハマトリエンナーレも第2回は4年目だったりした。あまりそこらへんにこだわるのは粋ではないというもので、無事開催してくれればそれでいいわけである。
今回(も)開催には本当に紆余曲折があったみたいで、総合ディレクターは水戸芸術館芸術監督のから横浜美術館館長に移った逢坂さん。初のトリエンナーレで、それなりに準備があったのかというと、やっぱり準備期間は短い。パレドトーキョーの三木さんがディレクターに就任し、作品調査を開始したのは昨年末だったということを逢坂さんのトークで知った。
横浜美術館を使うのはどうなのか?
トリエンナーレと開催地のつながりはどうなのか?
ともあれ、今回のトリエンナーレは規模がかなり縮小された感もある。美術館での開催ということで、安心できる反面、企画展と何が違うのか?という疑問もある。越後妻有、瀬戸内、中之条なんかで定番となった「スタンプラリー」はやっぱりあってほしい(笑)。
ただ、あきらかに、今までのトリエンナーレとは作品の質ということでは一線を画した感がする。
あいちトリエンナーレがあの規模で「見本市」としての地位を確立(するのか?)。
その他の地域のビエンナーレが「土地」とのつながりを深め、定着(するのか?)。
ヨコハマトリエンナーレは、質という面では横浜美術館を中心に展開。地域とのつながりについては、新港ぴあ・黄金町と連携をするということで一体感を持たせようとしている。残念なことに、私は新港ぴあ・黄金町にはまだ行っていない(8月28日現在)。すると横浜美術館と地域イベントに2回いくということになり、トリエンナーレ的様相は薄れてしまう。

中之条ビエンナーレ2011
http://nakanojo-biennale.com/
2011年8月20日~10月2日


中之条ビエンナーレに初日に行った
mixiの日記より。
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1765732761&owner_id=14373)
雨の2日間で、今回はずいぶんと回った。
初め、スタンプラリーがあるのを知らなくて、スタンプを押し損ねた3カ所、行けなかった「イサマスタジオ」「暮坂芸術区」を覗いてスタンプなるところはほぼ訪問したことになる。
実際、時間をかけて見ようとすると3日は必要ということが分かった。

注意事項:
ガイドブックを買うこと(500円)
ツアーは便利そう。もっともそれ以外ではレンタカー・マイカーで行くことになる。当然山道なので、運転に自信のない人は覚悟をする必要がある。
駐車場はちょっと悩む。
越後妻有トリエンナーレほど道案内は親切ではない。作品も意外な展開が多い。
...作家が2カ所・3カ所展示している場合がある。あれ?似た作品が?というのはたいてい同じ作家だったりするので。
(ボランティアによる運営が基本なので、その方々にあれこれ頼るなかれ、自分で解決する覚悟をもって臨むべし。覚悟を上回る感動がくること間違いなし。ただし、五感をとぎすまし、緊張感をもって接しないと作品を見落としたり、意図を勘違いしたりするリスクが高い)

今回の感想については色々おもうこともあるので、
じっくり言葉をえらんで記録したいと思います。
(批判をするとか、ダメとかいうことではなくて、ビエンナーレが曲がり角にいることを感じたこと、横浜トリエンナーレ、所沢ビエンナーレを比較することで、中之条ビエンナーレの立ち位置が見えると考えています。もちろん、最大のライバルは「越後妻有」であるのだろうけど、そこは違いすぎると思う)

中之条のネコ
(http://www.flickr.com/photos/owada/sets/72157627490127530/ )
どこからとなくネコが会場に居着く。
中之条のネコはなんと、受付で出迎えてくれ、出口でお見送りまでしてくれた。
六合エリア赤岩集落42長英の隠れ家「湯本家」
近江八幡のネコ
http://www.flickr.com/photos/owada/sets/72157625213940675/

中之条ビエンナーレ2011一番の見所
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1766109409&owner_id=14373)
中之条ビエンナーレ2011一番の見所は
ここ「六合エリア」京塚温泉、ねどふみの里であろう。
http://www.flickr.com/photos/owada/sets/72157627491844970/show/
ちょっとした秘境気分を満喫できる。
桃源郷というのはこういうところか?
というのがねどふみの里。
ちなみに、京塚温泉には1000円で入れる露天風呂がある。
入らなかったけど、次回は挑戦したい。


所沢ビエンナーレ2011「引込線」
http://tokorozawa-biennial.com/
会期:2011年8月27日(土)〜9月18日(日) 10:00〜17:00
第一会場:所沢市生涯学習推進センター
第二会場:旧所沢市立第2学校給食センター


今回で第0回から始めると3回目。0回、1回は「引込線」を会場としていたが、今回は会場が変わった。
第一会場・第二会場と2カ所の展示となった。
圧倒的に第二会場に力があるが、セットで引込線ということなのだろう。
やっぱり、この会場でやる必然性というものを感じさせない作品には「弱さ」が全面に出てしまう。
学校跡地・給食センター跡地ということで作品作りをしていると「力強さ」が出てくる。
もっとも、その作品から新しい何かが生まれるのか?
という問いに対する回答は私には見つけることはできなかった。
次回に期待が膨らむ。
続けることに意味があるということであろう。


空海と密教展
東京国立博物館
http://kukai2011.jp/

東京国立博物館の展示に「スベる」企画がない。
とにかくどれも連日満員という企画が続いている。
美術ブームということもあるけど、企画の巧さは群を抜いていることは間違いないと思う。

やっぱり日本人は「仏教美術」に興味を持っているようで、この熱心な来館者に感心するし、お土産物ブースもすごいひとだかり、博物館の貴重な収入源であり、美術館・博物館の感動を持ち帰るための「形」あるものなので、どんどん売ってどんどん買って帰ることは日本美術の未来に貢献することになる。
オリジナルでないといけないとか、コレクションをする喜びみたいなことにこだわることなく「記憶」を形にするための手段としての「グッズ」企画も日々精進するべしということなんだと思う。

肝心の展示ということでは、
密教は難しい。
その難しさというのは、昔、コンポン研究所の所長に示唆いただいたものがあって、その答えをまだ出せていないのだけれど、なんとなく、その問題と解決のための糸口は分かっているつもりだ。
仏教という宗教はその教義なるもの、教えたるものは「言語化」されたものということが前提であるものだという前提がある。それに対して、「神道」なるものは「教典」があるわけでもないために、崇拝の対象は非常に曖昧なものになるわけである。(新興宗教はその問題に対して「教典」を持とうという運動がなしたものであって・・・)

密教の教典である「大日経」これはかなり不思議な経典だということを聞いたことがある(いつかちゃんと読んでみたいと思うのだけれど)。この経典には謎な文章だらけで、何を言っているのかわからない。通常、経典は「生きることとは」ということを語るのではなく「成仏するための心構え」を伝えるべきものなのに、この大日経には「田植えの仕方」「お祝いの方法」みたいなそんなことが書かれているそうで、それは何を意図したものなのか?
経典の文章を読めた人ならそれは「摩訶不思議」な内容であることは一目瞭然なようである。
で、空海が唐に渡って「なんです?この経典」・・・「おまえが来るのを待っていた」という預言的な問答が出てくることになるわけで。

そんな空海は
やっぱり文字は達筆だった?
(草書は私にはわかりません。ただ、展覧会にあった楷書は上手いと思うものが多々あった・・・空海書じゃないんだけど・・・)
入口のあいさつ文にある通り、
「ことばにすることが難しい密教」
なるほど・・・。

で、素晴らしいと思ったのは、
薬師寺の日光菩薩・月光菩薩の展示と同じ手法で第4展示空間を演出していたこと。
平成館にはエスカレーター上って左手・右手の2つの展示ギャラリーがあるけど、左手は史料などを展示するのに向いた空間。右手は彫刻などの立体造形物を展示するのに向いた空間という区分けがあるようで、写楽展なんかでは気がつかなかった(そりゃ版画だけだから当然)けど、やっぱりこの仏像照明の見事さ、展示の妙は、同じ手法とはいえ「流石」。これだけでも見る価値はある。

まだの方、高野山に行ったことのない方(高野山から持ってきたものはありませんが)、醍醐寺・神護寺・東寺なんかに興味ある方は必見。
あと1週間。劇混みは必至だけど、金曜日の夜間展示、土日の夜6時までの展示時間延長は利用する価値があるかもしれない。

ヨコハマトリエンナーレ2011
http://www.yokohamatriennale.jp/
特別連携プログラム
http://www.yokohamatriennale.jp/special_program/index.html
新・港村小さな未来都市
http://shinminatomura.com/
黄金町バザール2011
http://www.koganecho.net/koganecho-bazaar-2011/


ヨコハマトリエンナーレ2011にはオープンしてすぐに行った。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1762900086&owner_id=14373
実は、あまり上の2つのイベントは期待していなかった。
が、これはすごい。
実は、ヨコハマトリエンナーレは完成度は高いのだけれど「物足りなさ」があった。その足りない何かがこの2つのイベントにある。全部を1日で回るのは難しいかもしれないけど、4会場巡っていただければ「堪能」できること間違いない。

「モノ足りない何かとは」
アートが社会に存在している価値は2つあると思う。
ひとつが「指し示すこと」
もうひとつが「人と人の関わり」
ビエンナーレのメイン会場である横浜美術館・日本郵船海岸倉庫には、作品が持つエネルギーと未來に対する黙示的なものはひしひしと感じた。そして、人に示すからにはそれなりのレベルであってほしい要求を十分にクリアしていた。
しかし、残念なことに、通常の展覧会の枠を超えることはなかった。数年に1回の大規模展である、キュレーションが通常展と違うということくらいで、キュレーションが違うことはずいぶんとその出来は変わるわけだけど、なんとはなしに、日本各地で花盛りの「ビエンナーレ・トリエンナーレ」にある「人と人の関係性=作家と観客との関わりを感じさせる何か」が希薄だった。
それはボランティアスタッフとか、会場を回る巡礼チックなもの、スタンプラリー(笑)、ギャラリーツアー・・・いろいろなビエンナーレ固有の作品鑑賞へのプロムナードができあがっている中で、美術館で展示を行うということに対しての疑問を私が感じたのかもしれない。
で、その不安、不満は2ヶ月後の10月10日に解消されることとなったのだ。

巡回の順番としては
「横浜美術館」→「日本郵船海岸通倉庫 」→「新港ぴあ」→「黄金町」
って順番がよさそう。

新港ぴあ
にはトラウマのようになってしまった「CREAM」というイベントを思い出し、ちょっと足が遠のいていたのだが、3.11を契機に立ち上がった「復興」という大きなエネルギーに満ちた空間にちょっと涙が出た。
契機はとても残念な災害ではあるが、それであれだけの人々が本気で取り組み、ああいった形でプレゼンテーションをしているのは嬉しい。
あと、思い思いの形で展示をしている様にもとても好感が持てた。
あのだだっぴろい体育館(空間)をああいう仕切りをつけて展示空間に仕立てるのは「路上生活」の家を想起するとともに、消防法を理由にどんどん消えていった戦後復興の(アジア的な)街並みと似た郷愁のような何かを感じた。

黄金町
知る人ぞ知る「街」だったが、いつの間にかその「街」は様相を変えていたようだ。
いくつかの展示会場はその「昔の姿」を残しながら作品展示をし、ある展示会場はこれまたずいぶんおしゃれに変貌して、展示をしていた。
この街には美術館とは違う「作品を作る現場」が残っている。人々の生活の下に作品ができあがっているという実感を持てる。魅力満載である。
あまりカメラを向けるには失礼(生活の場そのものであったりするので、そういうところを写真に撮るのは気がひける)だけど、その空間そのものはとてもフォトジェニックである。みなとみらいとかいっているこじゃれた場所とは逆な場所である。
いましばらくはこの姿を残してくれるのであろうか。

会場の写真は今、サーバにコピー中。それから現像して、flickerにアップするので明日には・・・。
どちらもあと1ヶ月足らず。
是非。

木津川アート2011加茂エリア
http://kizugawa-art.com/access/

正倉院展2011

神戸ビエンナーレ2011
http://www.kobe-biennale.jp/

歌舞伎町アートサイト2011
http://kabukicho-art.org/

メタボリズムの未来都市展―森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/metabolism/index.html

森美術館のかなり力のこもった企画展
メタボリックシンドロームと混同するととんでもないことになるが、
メタボリズム=新陳代謝
という意味で、都市設計というものに「新陳代謝」という概念を入れたものは今までなかったということは、この展覧会を見れば色々なことが分かると思う。

日本が戦後復興に何を考えたのか、その当時の建築家たちがいかに進んだ考え方をしていたのか、ただ、この進んだ考えというものには「限界」も多くあって、みていくうちに、そのことに来場者の多くは気がつくのだと思う。

いずれにしても、これだけの戦後日本の復興からオイルショック前までの「建築」を通した日本への志の熱さに、ちょっとぐっときた。

初めて美術館で「音声ガイド」を聞いてみた。
(無料ってのと、余っていてすぐ借りることができたから)
特に目新しいことは言っていないけど、いい話が聞けた気分。

「新陳代謝≒(環境適合の)進化」なのか「新陳代謝≠進化」なのか
展覧会を見る限り、新陳代謝は進化とはなり得なく、とてつもない未来を
予想しているかのようでいて、20年後にあるべき姿は予想できなかったようであり、当時には環境問題という概念がなかった(一部考慮したかのような話はあるがそうとは思えない)、災害対策という概念もなかった、高齢化社会という課題もなかった、移民という問題もなかった、食糧自給率という問題も、勿論、財政赤字すら、燃料問題も、原発問題も、地政学的リスクも、鬱病も、デジタルデバイドの問題もなかった。
予想できなかったから悪いなんてことではなく、そういったことにどう対応するかということを考えると、大きな都市設計というものがある一方で、建築物はコミュニティ単位で考えるべき時代に来ていたのかもしれない。
1997年ICCのオープニング企画展「海市」展は、実はこのメタボリズムを基礎に発案されたということではなかったと記憶しているけど、岡崎乾二郎が初っぱなでその真相を見抜いて、まさに、メタボリズムを思わせるインスタレーションを空間に展開してしまったことにある種の「格好良さ」を感じた。

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